昭和51年5月1日 朝の御理解 ●①、②

御神誡一、真の道におりながら真の道をふまぬこと。



 色々と、真の道ということについては、いわれます。信心がなくても、真の道といったような言葉は使われます。
 ●①「真の道にかないなば、祈らずとても神は守らん」●といったような、いわゆる信心の無い人でも、その真の道ということを申します。えー、その真の道ということは、んー、事実、真の幸福、真のおかげが現れていかなければ、真の道とはいえんのです。
 金光様の御信心は、だからどこまでも、いわゆる真の道を分からせてもらい。その真の道を行じ進めていくという、お道の信心を頂いておっても、その真を求めずして、ただ信心をしておりますというのでは、金光様の信心にもとることになるのです。
 ですから、真とは、真の道とは、と追求していく。四神様のみ教えでしたかね、「真で成就せぬことなし」と「成就せぬその時は、真が欠けたと悟れ」とこう。ですから、金光様の信心でいう真というのは、ね、えー、そういうはっきりしたものなんです。
 成就せん時には、自分の真が欠けたんだと悟らせてもろうて、いよいよ本当な事、本当な事を、と追求していく。そういう生きかたを身に付けて行こうと精進するということ。金光様の御信心はもう、だからそれに尽きるわけです。
 そりゃ真の道にかないなば、あー、祈らずとても神は守らん。と確かにそうかもしれませんけれども、ね、自分は真の道にかのうた生きかたをしておると言うておっても、その人が、もし様々な難儀をしておるとするならば、そりゃ、だからおかしい事になるわけです。
 信心を頂いておっても、いわゆる真の道。お道の信心は、私は真の道だと思うですけれども、その真の道におりながら、真の道を踏まん。そうして、ただおかげを追求するということでは、あー、いわゆる本当なおかげ。いわゆるほん、真の道ということは本当な道ということでしょうから、本当な事が開けてこない。
 私は今朝、この御神誡を頂かせて頂いて、本当に神様がいかにそれを求めておられるか、ということを、今日は何時の場合でもそうですけれども、実感いたしました。実は今日ご神前で、今の教団のあり方についての色々お願いをさせて頂いて、大体金光様のご信心は、どういう生き方にならせて頂いたら教団の発展ともなりゃ、世の中の人が一人でも多くを救われ、助かっていく事になるのだろうかと、いう事を思わせて頂きましたら、あの、お言葉で●②「真木信司」ということを頂きました。
 確か、真木信司、なんか聞いたような名前ですけれどもね、ないのかもしれませんけれども、とにかく真木信司と私の信心に響いてきた。
 それでその真木信司を、字にこう直してみたら、いわゆる真の木と書いてある。真木ね。真という字と木。信は信心の信。じは司る。お道の信心は、だからね、真木、真心。同時に、神を信ずる力が司る道なんです。●
 だから、ね、やり方がよければと、例えば今社会に金光教が伸び出して、社会助けのための、まぁ生き方をしていくということが、あー、頂く信心から現す信心、生みなす信心だという風にいわれております。
 ね、おかげを頂くという信心から、その自分の頂いておるおかげを社会に広めて行くという。いわゆる積極的な生き方にならせて頂く、という事なのですけれどもです。金光様の御信心はどこまでも、いわゆる真心、生き方た良いとか、やり方が良いと。いわゆる経営方が良いから繁盛しておるというじゃないです。
 これはお道の信心を頂く人達の、ならお商売をさせて頂く人達でもそうだと思う。何事にも真心になれよと仰るから、何事にも真心になって行く、いわゆる真心とは真心【まごころ】と書いてある。
 真心【まごころ】になって行くという生き方を身に付けていくから、繁盛するというのでなからなければ、繁盛じゃないです。あちら宣伝が上手だから。あちらはなかなか努力しなさるから。というだけで繁盛じゃない。それでは信心のない人達のいうことであって、お道の信心をさせて頂いて、仕事をし、お商売をさせて頂いておるならばです、ね、どこまでも真木である。真心である。
 同時に、いよいよ神様を信ずる力は、いやがうえにもつのっていく、その信ずる心が司っていく。その信ずる心が病気全快ともなりゃ、商売繁盛ともなりゃ、人間関係のスムーズさといったようなものにもなってくるようなおかげです。
 ね、どんなに人から例えば悪ういわれておってもです、真で(行じぬ?)事ないと仰るのですから、ね、言われてみれば、又いわれておる、いわゆる昨日の御理解じゃないけれども、火の気の無いところに煙りが立たんといわれるくらいだから、いよいよ自分というもの追求してなるほど、真が欠けておったなと悟らせて頂いて、真の道をいよいよふまわせて頂き。信ずる力を、いよいよやしのうていってうちに必ず成就するというのです。
 それが金光教の信心であり、おかげの現れ方というのはそういう事になるのです。そういうような、一つのルートをたどっての繁盛じゃなからなければ、お道の、いわば信心ではないという事になります。
 ならそこで、難しいのはその、真の道なんです。ね、ただいうだけならきやすいです。なら金光様の信心しておるから、皆真の道を歩きよるとはいえない。ならそりゃ、あーでもなかろうか、こうでもなかろうかと色々まぁ、私共でも、ね、本当のおかげ頂きたいから、本当のおかげを頂く為には、どういう信心さえてもろうたら良いだかろうか。
 はー、一生懸命お参りもした。ね、拝むもした。様々な御用すりゃ助かるといわれうから、御用もさせ、精一杯の御用もさせて頂いた。けれども、それはおかげにはならなかった。
 いよいよ私はこれが本当だという風に確信もって言えられるようになったのは、もう椛目で人がどんどん助かるようになってからの事であります。いわゆる、成り行きを大事にするという事。成り行きを尊ぶという事。
 昨日は、月末の御礼信話会でございましたから、まぁ皆さん、一番始めに私がこんな事を申しました。やっぱ四月という時は、まぁ大変多難な、多事多難な月であった。第一、一日のお月次祭にあわせて勧学祭。それから私の生誕式の祝賀会なんかがあって、ほりゃ御本部参拝から、もうずっと引き続いておった。
 昨日、久留米の稲垣さんのお母さんが、鹿児島におられます。お商売をなさっておられる。もう本当に合楽教会にお参りをすることを楽しみに、この頃は御本部参拝をするといわれる。
 もう帰りに、合楽に久留米の、いわゆる娘さんであるところの稲垣さんのお家に泊まられて、そして、えー、御本部参拝から、あー、ずっと引き続いて合楽の大祭を拝んでから、それから何日かしてから帰られるわけです。
 そんなわけでございましたから、まぁ皆さんもそうでしょうけれども、おー、丁度月のうち十五日だけしか、お店を開けなかった。これまた、もうお母さん神様、神様。信心、信心ばっかりいうから、まぁ息子達がどうかいうかもは知れんと思いよった。
 一月を締めくくってみた所が、支払うところにはちゃんと支払わせてもらえ、売上げは、三十日間ぶっ通しでお店をさせて頂いておる時よりもかえって成績があがておったということに、改めて驚いて、改めて娘さん「稲垣?」さんところに、こう分厚い手紙が来た。
 開けて見るところが、月末こんな御礼と、それから5月の月の初めのお願いと、を改めてして頂くようにという、その手紙が来たというて昨日そのお届けがありました。
 まぁこれは皆さんも体験しておる、おられることであろうと思いますけれどもです、ね。私は、あー、そういう例えば様々なことのおいかった月ですけれども、おかげはいつもよりも沢山頂いておるというような、私はおかげこそ、真の道にかのうておったから、おかげを頂いておるのです。ね。
 いうならば信心に心を向けきっておったから、おかげを受けておるのです。そういう働きがお出来になる神様なんです。そのことを、皆さんに聞いてもろうて、とにかく一月を締めくくった時に、まぁいうならば様々なことがありましたが、もうその全てのことをです、合掌して受けた一月であったと。
 一月全体がです、いうならば成り行きを全てを、様々なことがあったけれども、有り難い、有り難いで受けていったか、又はどの程度に受けられなかったかということを締めくくってみることがです、一月の信心を振り返って見て、神様へお礼を申し上げるところ、又は足りなかったところは、お詫びをさせて頂くところというような意味の話をさせて頂いた。
 もう金光様の信心、いや合楽に御神縁を頂いておる人のことであるならばです、いうならばなら、なら一年もお参りをした人ならばです、それが3年5年10年と続いた人ならばです、もう絶対分かりきるほどに、分かりきっておるという事であります。
 真の道とは、ね、いよいよ起きてくる全ての事を有り難い、有り難いで受けていく以外にはなにのだと。その何故受けなければならないか、というわけ合いというものを、様々なご理解の、をかく、あらゆる角度から頂いて。ん、これに間違いはないという生き方を見出して行くことなんです。
 ね、大祭の時分に申しておりましたように、若先生が頂いたという、ね、善人とは全てのことを、良い方へ良い方へと受けていく人を善人というのじゃと。例えば、お礼を申し上げねばならないようなことでもです、悪い方へ、悪い方へと心を使うていく。悪い方へ、悪い方へと物事を取っていく人を、悪人というのじゃと。
 だから善人は褒賞され、悪人はその咎を、のせめをおわなければならない。いよいよ窮屈になって行くというのは、あなたが悪人の証拠だというわけなんです。ん、もう本当にこれに徹する以外ないです。難しいことはないです。ね、きつい時にはそれを修行と思うて頂いたらいい。
 叩かれた、まぁ痛い思いをする時にはです、ね、痛いけれども、こうして神様が信心、心を鍛えて下さるんだ。本当のことを分からせて下さるんだというて、お礼をいうていく以外にはないのだと。そういう道なんだ。真の道とは。
 ん、そこから、なるほどこういう生き方でいけば間違いないおかげが受けられる、という信ずる力はいよいよ募ってくるでしょう。ね、いわゆる、真木信心になってくるわけなんです。
 私は、金光様のご信心はね、ここんところを極めていくという生き方。ね、そこから、開けてくるところのおかげ。ね、もうそれをいよいよ、いわゆる自分の信心の血に肉にしていく以外ないということをです、皆さんも分かっておられるから、それをいよいよそうだと思い込んで。
 一月を振り返ってみて、はー、本当にあんなことがあった、もし信心がなかったら、あん時腹がたっとっただろう。もしあん時に、私に信心がなかったら、もうそれこそ慌てふためいておったであろう。
 もし信心がなかったら、あん時にかんかんになって腹立てておっただろう。そういうことが一つもなくなって、あれもおかげ、これもおかげで受けてこれたということが、一月の締めくくりに、お礼という事になってくる時にです、ね、いわゆる真の道をいっておるという事になる。真の道を踏んでいっておるということになる。
 ただ信心を頂いておるから、真の道に、を踏んでおるとはいえない。真の道におりながら、真の道を踏んで行くということはそういうこと。具体的に言うたら、真の道とはそういう生き方を身に付けて行くこと以外にないんだと。
 ね、いうならばです、ね、そこんところを私共がふんまえ、そこんところの生き方を身に付けて始めて、神様がご承知の世界に生き抜いておるという事が言えるのです。神様が見通し、聞き通し。その聞き通し、見通しの神様の世界に、信心の世界に生き抜いておるということがです、真の道を踏んでおるということです。
 ただ神様だけがご承知だけの世界に生き抜いておるとだから、ね、自分の生き方は間違いない。と例えば自負しておりましても、ね、成り行きそのものを大切にせず、尊ばずしてです、いうならばです、全てのことを、ね、良い方へ良い方へと頂かずして、真の道を踏んでおるという事はいえない。ね。
 私は金光様の信心。いや、合楽に御神縁を頂いて、まぁこれほどの御理解を日日頂いておるのですから、それをいよいよ極めていこうという決心をする以外にないと思うです。金光様のご信心は。
 ね、初めて、いわば真の、今日私がなら、ご神前で頂いた。本当にこりゃ教団の生き方だけのことではない。教団の生き方が本当になりゃ私共もその生き方に神習わせて頂くわけなんですから。どういう生き方をもって本当とするかと。
 ね、今までの、例えば奉祭要式が悪かったから。又は金光教は、積極性がないから。といったようなことが、例えばなら、(ふぐわない?)もとであるとして、積極的になったところでです、奉祭要式を変えたところでです、ね、それでおかげになるのではない。金光様のご信心はどこまでもね、それこそ、夏の日に広がるかぼちゃのような広がり方をするのじゃない。
 どこまでも、それこそメロンのようなものだ。沢山はならんのだ。それが段々、段々百年、千年と経って行くうちに広がっていこうという信心なんだ。宣伝して広がって行こうというのじゃないのだ。
 どこまでも、お道の信者、信奉者一人ひとりがです、真の道を踏ませて頂いて、真の道が開けて来るおかげ。ね、それには、いよいよおかげを頂かせて頂いてです、ね。成り行きをいよいよ大事に尊ばせて頂く道こそ、真の道である。
 そこから神様を信ずる力も生まれてくるのである。そういう信心の喜びを、現して行くというのが、ね、信心の真を現して行くことになりますから、ね、そういう広がり、そういう助かりの道を広げて行くという事でありますから、その本当の助かる道を踏まずして、いかに何物いりで宣伝したところで、本当のことではない。こりゃ教団のことではない。お互い銘々の上にもそれが言えるのです。ね。
 もうここに極まった。ね、ここに極まっておるんだと。ね、例えばなら私が、今日ご神前で頂くその真木信司という事とと。なら今日私は教典を開かせて頂いて頂くその、「真に道におりながら、真の道を踏まぬこと」という事と、二つが一つになってです、これを神様の心として頂かなきゃならない。
 いかに神様が真の道におるのだから、真の道を踏んでくれと。合楽ではその真の道をなぜ踏まなければならないかということを、ある場合には教学的に、ね、理論整然とです、いうならば説いて明かされておるのですから、ね、それを私共の信心の信条としていかなければならないぞという、神の声を改めて聞く気がしなければ、御理解を頂いた値打はありません。
 私は今日ご神前で頂いた事。御結界に座って頂いた事。そこに一致点がある。それが神の心なんだ。そうあってくれよという神様の願いなんだ。ね、ただお参りをして、お願いをしておかげを頂くという事から、そこんところの、信心を一つ、いよいよ身に付け、いよいよ真木信司。いうなら真の道を、おるのですから、真の道を踏んで行くと。
 その真の道が今までは分からなかった。もうそれこそ五里霧中で、皆が、なら全教の人達もやっぱりそうだろうと思うんです。真の道とはこうだぞと、いうことを、誰もはっきり教えてくれないからです。
 ただ真心、真心ばっかりいわれて、なら真心か、真心でないかは自分でも分からん。ね。それが、まぁ何がなしに、手探りのような生き方で、おかげ頂いたらはー、これが真心じゃったじゃろうと思うくらいな事。なら、合楽ではそれをはっきり、私が頂いて、私が示して、そして、皆さんに聞いて頂いておるのですから、絶対のものです、間違いがないのです。
 ということをなら何十年間説いて来たわけですけれども、改めてなら今朝もです、神様が私共に求めたもうものは、真木信司であり、真の道を踏むことだということをせなければならん。
 真の道を踏むということは難しいことかというと、そうではない。ね、それを本当に分からせて頂いて、全てのことを良い方へ、良い方へと頂いて行く道なのだ。はー、なるほど今まで、自分がおかげを受けなかったはずだと、ね、お礼を申し上げねばならないような事でも、悪い方へ悪い方へととって来ておった、悪人であった時代のお詫びをさせて頂いて、いよいよ善人を目指して行くということがです、真の道を踏んでいくのだと、このようにはっきり、しかも神様の声をここに聞くようにしてです、教えて下さるのですから、お互いここにいよいよ、ね、力を入れておかげを頂かにゃならん。
 5月という月も、いよいよ又結局は、そこにね、力を入れさせて頂いて、いよいよ本当なものにしていくということは、いよいよ信ずる力が付いて行くということなんです。いわゆる、信ずる心が幸せを司って行くのです。
 神様を信じて疑わないという生き方。それは、真の道を踏んでいっておらなければ、上様をいよいよ信じれる力も生まれてこないと思います。ね、おかげを受けたり受けなかったり、というと、あん時ふがよかったというような、ことにすらなりかえないのです。
 ね、そういう時に、私共が、結局真の道を踏んでないことに気付かせてもろうて、真の道を、それこそ、もうはっきり教えて頂いておるのですから、もうそれをただいよいよ追求していくというか、それを行じていき、現して行く以外にはない。
 ね、いよいよ真の信心の、真を現しつつ、いよいよより本当な、より大きなおかげを頂いていかなければいけません。どうぞ。

梶原 佳行